★☆潤いと安らぎの活きづく街-2☆★

潤いと安らぎの活きづく街 ―― ゆぎ
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きょう、、、ある事務所で、、、地域に関わる本を見つけました。 とてもわかりやすいので、、、引用します。・・・・由木土地区画整理事業誌から

由木・・・潤いと安らぎの活きづく街 ―― ゆぎ


●幕末から明治にかけて、生糸貿易で財をなした鑓水商人


大栗川の源頭にある鑓水は、「絹の道」として栄えたところです。
安政6年(1859)、横浜海港と同時に生糸は重要な輸出品とな り、八王子は生糸の一大集散地となりました。山梨、長野、群馬 などからも大量の生糸が集められ、馬の背で絹の道を通り、横浜 へと運びました。絹の道は、八王子の八日町から湯殿川を渡り、 片倉から鑓水峠を越え、南下して小山から境川沿いに原町田へ 出て、横浜へと続いていました。
鑓水には、生糸貿易で財をなした大商人が輩出して鑓水商人と いわれました。鑓水は農業の生産性が低いため、進取の気性に 富んだ村民が早くから生糸などの商業活動にたずさわっていまし た。「絹の道資料館」は、鑓水の名主であり、豪商として知られた 八木下要右衛門家の屋敷跡地で、養蚕から生糸貿易に関する 歴史や資料が数多く残されてます。発掘調査の結果、見事な 石積水路や母屋の礎石の一部などが発見され、その一部は 資料館に野外展示されてます。

「絹の道」は縛夏から明治にかけて、主に生糸を運んだ道として 歴史的にも意義のあることから、文化庁の「歴史の道百選」に 選定されました。横浜港は、多摩地方に西洋文明をもたらしました。 そのことを示す資料が「絹の道資料館」にはたくさん残されてます。

絹の道(文化庁選定歴史の道百選)
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/004414.html
絹の道資料館
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/kinunomichishiryokan.html

『絹道栄枯盛衰』、絹の道について
http://210.128.177.3/CEC/freeway/chuo/5/index.html

●80年続いた南多摩郡由木村


徳川時代の由木領は、現在の八王子市、町田市、多摩市の一部 を含む広大なものでした。
明治時代になると廃藩置県により、旧由木領は一時韮山県、品川県と なった後、明治22年(1889)、市町村制施行により、上柚木・下柚木・ 鑓水・中山・松木・大沢・堀之内・越野・中野・大塚・別所の11ヶ村が 合併して神奈川県由木村となりました。
その後、東京府〜東京都南多摩郡由木村 となり、昭和39年までの80年間存続しました。
東西に長い由木村は、西南北と三方を山に囲まれ、平坦部では大 栗川の水を利用して水田が開かれ、丘陵地帯では畑が耕作されてい ました。村の面積の57%以上は山林原野で、大部分は落葉樹林で した。山林のマツやスギ、ヒノキなどは建築用材として、コナラやクヌギ などは燃料用の薪炭として、各地へ供給されました。
大地主は少なく、小規模農家の大部分が自給自足体制で、副業として 養蚕が行われ、農閑期には目籠などの副業に精を出していました。 稲わらは牛馬の飼料のほか、米俵やムシロ、草履などの貴重な材料 となり、桑枝も高級な燃料でした。牛馬や蚕の糞、落ち葉は畑作の 肥料として利用され、日本農業独特のリサイクルシステムが確立して いました。しかし、畑地の半分は山林斜面を開墾したもので、急勾配 のため人手に頼らなければならず、はしごや籠を使って重い堆肥や 農産物を運搬するなど、平坦な農地の二倍、三倍の労力を要し、 由木人独特の気質が生まれました。

八王子市のデータ
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/profile/data/index.html

●農村経営の先覚者、三多摩初の酪農に取り組む


農村経営の特異性として、先覚者井草甫三郎氏が挙げられます。 井草氏は、窮乏する農村の振興のためには「酪農経営」との信念 をかため、酪農の先進地の視察し、ホルスタイン種牡牛一頭を買い、 明治25年(1892)、三多摩で初の酪農を行いました。井草氏の 構想は単に牧畜の奨励ということでなく、当時の自由民権壮士が、 政治に熱中して農業をすて、離村する傾向を憂い、政治と農村を 密着させ、農村指導者を育成するものでした。
由木村は牛の村、酪農の先駆村として知られてました。永林寺境内 には、由木村搾乳者一同が建てた「牛魂碑」があります。

!!!井草甫三郎とgooで検索したら、、、、おっさんのHP出てきた!!!
ビックリ仰天(*_*)(*_*)

井草氏は松木で、、、今の松木中学校あたりに昔、牛舎がありました。 井草甫三郎氏の子、、、井草正さんは農業教育者で80歳を過ぎてから 十数年、、、うちに来てはハム、乳製品の作り方を教えてもらいました。 また、多摩地域の40〜60歳の農業者は井草正さんの指導を受けました。

●幻の南津鉄道と乗合バス


文明開化の波にのって、多摩地方では鉄道も次第に整備され、 甲武鉄道(現JR中央線)、京王線の開通によって大きく発展し ましたが、由木は鉄道からは離れていました。
昭和2年(1927)、地元の有力者たちは砂利運搬を主目的に、 桜ヶ丘から橋本までの南津電気鉄道株式会社を設立し、由木村に本社を 置いて工事をスタートさせましたが、中止され、その後は乗合バスが 由木村唯一の交通機関となりました。
昭和5年、由木村の石井善蔵さんは自費で中古のバスを購入し、 由木小学校前・八王子駅間を運行しました。乗り手が少なく、峠の 坂で動かなくなったこともあったりして、経営も苦しかったようです。
昭和14年に京王電鉄が買収し、八王子、由木、相原間の営業を 開始し、その後、次第に拡充されていきました。

石井善蔵さん(中山)のこの話は、、、由木の年輩の方から、、、 よく聞く話です。


●太平洋戦争の開戦


太平洋戦争の開戦とともに外地からの食糧の供給が断たれ、純 農村には食糧増産の要請が高まりました。出征兵士も多く、農業 従事者が減る一方で、昭和20年に南多摩郡随一の供出村になった 由木村は、食糧増産に励み、多くの疎開者や学童の集団疎開を 受け入れました。
昭和20年2月には由木村にも軍隊が入り、農家は食糧の調達や 兵舎の提供、食事の用意などの負担を強いられました。本土決戦 の備える準備として、鑓水から小山田付近には戦車を格納する壕 が掘られ、別所地区の南には戦車道路がつくられました。8月2日 の八王子大空襲による物的被害はなかったものの、終戦までは 空襲警報に脅かされる日々でした。(『八王子市の空襲と戦災の 記録』)

我が家も疎開者を受け入れました。
最近、、、その方が訪れてきています。自然保護活動に最近は 活動されている方でした。
あの辺に戦車を配備するということは、、、相模湾から、、、上陸すると 考えて、、、、
由木村時代約80年のうち、明治から終戦にいたる60年間は、日 本のほぼ平均的な農村で、定住人口の移動も少なく、明治時代に 建設された家や土蔵などがつかわれていました。
戦後は果樹・野菜など経営の多角化に取り組み、村の農業にも 変動がみられました。昭和30年(1955)以降は酪農家も増え、 120戸に達しましたが、その後は農業の近代化に結びつくより早い スピードで、急激な都市化の波が押し寄せ、酪農家は激減しました。

由木村の耕地面積と家畜飼養頭数

田・・・・・・・・・・・176町9反5畝
畑・・・・・・・・・・・318町4反8畝
園地・・・・・・・・・・・90町7反1畝  計586町1反4畝

1町=9917.36平方m  1町=10反=100畝

乳用牛・・・・・・・・618頭
役肉用牛・・・・・・・134頭
豚・・・・・・・・・・・2109頭
にわとり・・・・29807羽
馬・・・・・・・・・・・・・・・2頭

●八王子市への合併


昭和29年(1954)、東京都知事は町村合併促進法に基づく合併 計画案として、由木村と多摩村の合併を諮問いました。由木村では、 日野町・七生村・稲城村・由木村・多摩村の東部5ヶ村の合併を 希望しましたが、日野町は昭和33年2月に七生村と合併して日野市 となり、由木村は多摩村との合併には反対でした。
由木村では、八王子市への合併派、日野市への合併派が対立し、 最終的には住民投票に持ち込まれ、投票の結果、昭和39年(1964) 8月1日八王子市へ合併しました。
合併当時の八王子市の面積186.31平方km、人口は193,734人
以後年々人口は増え続け、平成10年1月 50万人に達しています。
市の変遷
大正 6年 9月   42,043人 旧市内
昭和16年10月   79,768  小宮町合併 
昭和30年 4月  132,246  加住、川口、恩方、元八王子、横山、由井 村合併
昭和34年 4月  152,025  浅川町
昭和39年 8月  193,734  由木村合併
平成10年1月   500,650



小学校低学年のころ、、、親達は、、、日野だ!!八王子だ!!
という話し声をよく耳にしました。
おめえの親戚は八王子派のだから、、、八王子か??日野か??
と子供達の話題も、、、、八王子??日野??
おれ、、、どっちでもいいやぁm(_ _)m


●区画整理への時代的背景


昭和30年代後半から東京への人や企業の集中が始まり、 人口が急速に増え続けるとともに、核家族化による世帯の 細分化が進みました。このため、都市部の過密化と住宅難 で市街地の地価は上昇し、人々はより安い土地や住宅を求 めて首都圏3県に広がっていく傾向がありました。
多摩丘陵周辺では、宅地造成が無計画に進められ、生活 基盤整備の伴わない無秩序な市街化、いわゆるスプロール化 現象が進行し、都市機能の低下にもなりかねない状況でした。 このため、東京都は、住宅難の緩和と多摩丘陵の乱開発を 未然に防止するため、昭和40年12月、多摩ニュータウン開発 計画を定め、30万人規模の計画的な都市づくりを行うことと しました。

詳しくはないんだけど、、日野の百草団地とか多摩の永山あたりは ニュータウンや団地計画の以前に、、、ゴルフ場が計画されていた ようです。
その頃はゴルフ場づくりが盛んでした。 それと、、、もう、、、その頃から、、、大学も用地買収してたようです。 由木村と検索すると、、、出てきます。

●事業化の経緯


多摩ニュータウン開発計画は、当初、多摩丘陵一帯の土地を全 面的に買収する新住宅市街地開発事業(以下新住事業という)に よって進められる予定でした。
しかし、由木地区では、古くから民家が点在して農業が営まれ、 地域と密着した文化と長い歴史があるため、新住事業から除外 して欲しいという住民からの強い要望がありました。
東京都では、地域住民の意見を尊重するとともに、多摩の自然と 調和したまちづくりをめざすため、由木地区を昭和46年7月に 新住事業区域から除外して、土地区画整理事業により開発する ことになりました。

いくつもの町を全面買収するという考え方があったのは事実、、 よく考えると、、、恐ろしい、、、

●事業の目的


由木土地区画整理事業の施行区域は、多摩ニュータウン計画の 一環として、道路、公園、緑道、河川、上下水道、鉄道などの公共 施設を整備改善し、あわせて宅地の利用増進を図ることを目的とした 事業であり、新住事業区域とと調和のとれた一体的なまちづくりを めざしました。
また、由木土地区画整理事業区域内には、多摩ニュータウン通りや 野猿街道などの幹線道路の整備、大栗川・大田川の河川改修、 都心と多摩を結ぶ鉄道路線の建設など、多摩ニュータウン建設で 重要な役割を果たす公共施設などが計画されていました。 このため、この事業を推進することは、多摩ニュータウンの全体像の なかでも重要な役割を担っていました。


多摩ニュータウン施行面積

土地区画整理事業都市計画決定区域 
    
由木土地区画整理事業       202.0ha
その他(多摩、相原、小山)    442.1ha
総面積              644.1ha


新住事業都市計画決定区域
            
東京都        738.4ha
住都公団      1437.5ha
都、供給公社      49.7ha
事業未認可区域    114.0ha
総面積       2339.6ha
     

合計        2986.7ha
          

  

由木まちづくり23年をふり返って、、


区画整理事業に関わった方々の座談会より、、、(抜粋)

司会
多摩ニュータウン事業が始まる以前の由木地区の暮らしは??

T氏
昔の由木地区は僻地でしたね、、、特に南大沢地区の一部には、 昭和27年頃まで、電灯がなかったような状況でした。
農業では駄目だということで、何かひとつ都市開発か何かできない ものかと個人的には考えていたんです。 昭和36年頃、南大沢に大手の不動産屋なんかが、土地を買いに来ました。 広い面積をそっくり欲しいんだといって、そういう話が来たんです。 それから何年か後に、ニュータウン計画が来ました。

I(e)氏
Tさんの話に関連しますが、その当時、私は由木村の村長だったんですけども、 由木は寒村でございました。だいたい養蚕と、水田を主として、あと酪農も ありましたが、農業を中心とした村でした。
昭和37年頃だったと思いますが、私と多摩の村長の富沢さんが、ある 大会社の社長さんのお宅に呼ばれまして、何の話かなと思ったら、 大沢(南大沢)を全面買収したいから協力してくれと、こういう話しなんですね。 たしかに由木の中でも大沢がいちばんの寒村でした。
由木は非常に開拓精神が旺盛だったと思うんですね。大正の初期に、 南津鉄道という会社が府中から津久井までの鉄道計画を作り、由木地区 で工事を始めた。何としても由木を発展させるには鉄道以外にないんだ、 という先輩の意気込みで計画が始まったんですね。何しろ大事業ですから 多少のことではできないということでしたが、その会社は倒産したと 聞いてます。
そんな経緯の中で、区画整理によって相模原線が引けるという 先祖伝来のの悲願が、夢が、達成できるんだというような希望が たしかにありました。

S氏
ここは新住事業で、全面買収するのだという話が最初にあった わけですよね。それには抵抗があって、集落だけは残せというのが、 私ども別所の地域の声だったんですよ。
しかし、残すといっても反面、山の上は新住事業の方はすごい文化都市 ができちゃって、下は太古以来の村が残ってしまう、そういう懸念して、 新住事業と格差のないまちにしたいという気持ちだったんです。

I(t)氏
当初の由木地区は、まだ、農業が半分、出稼ぎが半分という形の生活が 地域の状況だったと思います。

I(k)氏
下柚木地区の網からはずれたところは、 「良かったなぁ、まあ、遠くの火事だ」というのが本当のところです。
いちばん良い勉強になったのは、多摩地区だと思います。どんどん先行して 進行してましたから、、区画整理はいいんだなとだんだん納得していった。

k氏
堀之内地区とすると、農業でどうにか食べていかれたら、 ニュータウンも区画整理も必要ないんじゃないか、というのが 皆さんの考え方だったんですね。
何も無理に区画整理することないじゃないかというような考え方で 反対の第一声を上げたわけです。 また、小宅地の人も犠牲になることはないということで反対をしてました。

S氏
Kさんは堀之内引切地区という所で野猿街道沿いの、言ってみれば由木の 良い場所に位置していたわけです。私ども別所あたりは僻地の僻地的な 位置にあるわけです。
みんなが区画整理に目を向けてくれた理由かなというふな事を 今感じました。
別所では区画整理の前に、ニュータウン事業者に山を売ったお金で、 家を新築していましたから。作ったばかりの家で、時間もたっていなかった から、俺の家は解体しないでいけるんじゃないか、、、という気持ちが あったようですね。実際には、、、集団移転となったんですがね。

O氏(東京都)
同じ建設省でも新住事業と区画整理の所管の局が違いまして、 なんで新住の落ち穂拾いをやるんだと区画整理課がら言われました。 一体となったまちづくりなんですよと説明した覚えがあります。

区画整理の区域界を決めるのですが、新住事業側が既に筆界で 買っているので、区域界が凹凸だったわけです。特に別所地区が ひどかったですね。

K(i)氏(東京都)
非常に難しい問題で、新住法と区画整理法と都市計画法の谷間で、 どうにもならない状態が続いたんです。

K氏
新住事業施行者側の抵抗もあったんですか。

O氏(東京都)
ありました。新住事業と区画整理事業のせめぎ合いです。

K氏
素人が考えますと、、分筆して交換すりゃいいんじゃないかと考えますが。

O氏(東京都)
そうはなかなかいかないんですよ。

S氏
別所は、道路や宅地の造成工事を住宅公団に一括委託されましたよね。

O氏(東京都)
早期に事業を進める中で出てきた話しです。

S氏
別所はだいぶ盛り土をしましたよね。

O氏(東京都)
もともと別所に入ってくる道路は低かったんですが、新住は高いですよね。 都市計画道をすりつけるためには、どうしても盛り土していかなければ いけないんですよ。そのために、別所全体を盛土する事にしました。
その土は新住を切って持って来る。そういう事情から公団にまとめて 工事をしてもらうことになりました。 埋めることことによって有効面積が増えるわけですね。

S氏
そこいらは新住事業に譲ったという形になりますか。

O氏(東京都)
いや、、、新住事業としても平場の面積が増えますし、すぐ脇にで降ろせば 済むという、工事費の軽減や工期短縮もあるわけです。

司会
移転についてもご苦労があったでしょうね。

S氏
別所は京王線の南側がほとんど集団移転でした。 確か、59世帯だと思います。
いい時期にパッとやった。工事は住宅公団が山も谷も一緒に やっていますから、早い訳です。

O氏(東京都)
別所谷戸の集団移転をせざるを得なかったのは、都市計画道を 通すために、地形上どうしても大規模な造成工事を行う必要が あったからです。
しかし、集団移転の60戸以上の仮設住宅建てる必要があったんですが 公団が仮設住宅を作りましょうと言ってくれたのはありがたかった ですね。

(仮設住宅・・・現 ホームタウン松木がそうです)

H氏(東京都)
ある方は、総檜造りのすごく良い家を建てられていたんですね。 それを壊すのは嫌だと言われました。貴方も改築してくだいとお願い したんですが、、、理解を得られなくて、、、、
どうしても曳家でいくと言われました。
曳家といっても8mの盛土が必要な場所でしたので、大変なわけです。 36ヶ月にわたる大工事でした。

K(i)氏(東京都)
別所は建て替えたばかりの家が非常に多かったです。
当時、他の方々の家も皆解体しないで曳いて行きたいような良い家ばかり なんですね。
うちも曳きたいとなったときにどうするんだという質問を当時受けた 記憶があります。