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多摩ニュータウンの京王堀之内駅周辺の地域作りポンポコNetへの気まま投稿メモリー 。
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長池わくわくWEBTOWNのせせらぎ北のひまわり

★★★★★★多摩丘陵の地域作り★★★★★★

ここの地形はとても狭いところだった。 野猿街道の芝原というバス停の十字路を南に向かい大栗川を渡ると 両側は田圃が広がっていた。200Mほど行くと松木から堀之内の日影 の部落に行く道が交差している。その左側にはKさんとこの豚小屋があった。 その向こう側には南八幡さまの鳥居があり大きな杉の木が立っている。 この十字路から別所の部落に入る。2トンのトラックがやっと通れる道が 一本あるだけで右側に集落がつづく、左がわは道に沿って田圃が谷戸なりに ある。別所にも何軒かの酪農家がいた。大きくやっていたSさんはいち早く 相模原の田名へ移転して今もやっている。 途中に部落の消防小屋があり、それを過ぎると道がくねくねしてくる。そのころ 町田の小山田の農家から牛の餌に稲わらをとりに行くときこの別所をとおり 唐木田におりて小山田にいっていたが対向車がきたら大変だった。 左へ曲がれば唐木田、右へいくと長池だ。 子供のころ、ここはあまり行ったことはない。なんとかの伝説があり池に吸い込まれ る という話がありみんなの話題にもならなかった。

返信    炭谷晃男さんからのメール(八王子市別所在住)
別所
> ここの地形はとても狭いところだった。
> 野猿街道の芝原というバス停の十字路を南に向かい
大栗川を渡ると
> 両側は田圃が広がっていた。
 
しかし,野猿街道の芝原というバス停が,少し赤さ びて立っているのが私には見てくるのです.大栗川を 渡ると両側の青々とした田圃が広がっているのが見え てくるのです.鈴木さんの文章のうまさのせいもある でしょう.
> その向こう側には南八幡さまの鳥居があり大きな杉 の木が立っている。
なんだか一本杉までが立っているように見えるから不 思議です.  それには訳があるかと思います.一つは,高畑監督 の「平成狸合戦ぽんぽこ」という映画のせいかもしれ ません.ニュータウン開発以前の当時の写真を随分集 められ,それを忠実に映画の中で再現したと聞いてい ます.リアリズムに基づいたロマン主義があの映画の 基調となっているようです.それともう一つは,こち らの要因の方が大きいかと思いますが,日本人の心の 中にある「原風景」なのかもしれません.だれもが, 原風景としての農村を心にもっているせいなのかもし れません.  しかし,鈴木さんの文章を読むと,自分の心にはそ の体験に裏付けられた「実風景」としての農村がない こともあって,多少の嫉妬も感じます.また,現在, 「実風景」としての農村を維持することも大変難しい 時代ともなりました.  昔,山林を切り開き農を営まれていた別所の人々 や,現在も鈴木さんのように「実風景」としての農業 を営まれている人々.そして,比較的最近移り住んで きた私のような「原風景」のみを内に懐くもの.これ らの三者が,現実の共通の土地に新たな「現風景」を 協同で描くことが出来れば,ニュータウンの本当の歴 史がそこからはじまるような気がします.
野猿街道の芝原というバス停の十字路を北に入り、工事中のトンネルを見ながら 右へ、縄文時代の集落が出土したところの公園の手前を左にまがる。 その道を道なりに行くと今までの風景がガラット変わる。 多摩テックに向かっていくと山の中に入って家もほとんどない。  20数年前の話になりますが多摩テック周辺は日野市側は宅地開発が 始まった。そしてその裏側の山も買収の手が入る。ここは個人所有の山林と 堀之内の広い共有地でした。開発者はこの共有地の買収から始めたのです。 ここの山と関わりのない人達は皆、天から湧いてきた大金。この頃は多摩ニュータウ ン の開発と同じ時期で土地を売るのが当たり前の世の中でした。 この山を里山にしている9軒の酪農家はこの山がなくなると仕事ができなくなる おそれがあるのでこの買収には応じませんでした。また、山は明治、大正時代に 地元の人達の中で売られたこともありましたが、その時代は登記しないままに していることが多かったため、開発者は元の地主の子孫を見つけ、ペーパ会社を 仲介して買収を済ませ買収していきましたが売りませんでした。
現在は道路の西側は都立多摩丘陵自然公園の規制にかかっており、無秩序な開発は 出来ないと思いますが、、、、道路の東側、全農グランドの近くまでニュータウン の開発計画があり道から見えないけど、もう近くまで更地になっています。 このような状況はここだけでなく、自分の知っている中で、例えば稲城市内の丘陵 は殆ど開発の出来る網を掛けてしまったと聞いてます。
 
本当に多摩の自然を残すためには個人の力では出来ないと思います。 今の土地の税制は都市近郊の自然、丘陵は持っていることが大変な税制です。 都市部と同じ扱いで掛けられてしまうため所有者は売るか、区画整理にするかの 選択になってしまうのです。町田市のタヌキで有名になった能ヶ谷のタヌキも この問題でした。このままの税制ではどんどん緑がなくなっていくのが見えます。

昔の酪農組合の用事で別所のおじさんの家に出掛けた。 家の入り口の車庫には棚があり、ざるのなかに野菜が置いてあるのが見えた。 庭に入ると脚立が2本、置いてある。今日はたぶん庭の手入れでもやっていたのだろう。  こんにちは、おじさん居る、、?疲れていて昼寝をしていたらしい。 おじさん元気、もう体が動かねよ、でもよ、庭の手入れよくやってあんじゃんかよ、 考えてんだよ、庭なんかやめて駐車場にしようかと、おじさんやめた方がいいよ、 車、見ててもおもしろくないよ、まだ庭木を見ていた方がずっといいぞ。 そうだよな、いまの世の中、金のことばかりでおかしいよな、食えるだけのお金さえ あれば心の中は満足だよな。
このごろはちっとべえの畑で野菜を作っているんだよ、それをよ、表に出して売ってるんだ。 よく売れるぞ、そしてよ、買ったひとが本当においしいって手紙をくれる人がいるんだよ。 そんなもんもらうとうれしいね。作っててやり甲斐があるよ、だからよ、 野菜をちゃんと作るんだ、畑から野菜をとるんだからよ中山の石井さんところから 牛糞の堆肥をかならずいれてんだ。

昔は牛が居たけどなたいへんだった。昭和27年か28年頃から牛始めた。 寺沢の好ちゃんよりも俺の方が早かった。牛1頭いれば生活の半分はまかなえた。 月給が7000円の頃、牛は5万円した。買うのは大変だったけど、毎日、田圃の 畦の草刈りをして牛に餌をくれてた。よかったよな。昔は30数軒の部落だったけど その半分の13軒の家で牛を飼っていたよ。昭和35年頃から45年頃までが 本当に良かったよな。(おじさんは別所の開発が始まるまで牛を飼っていました。)

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